2012年3月29日木曜日

グレッグ・グッド « Resonanz360


グレッグ・グッド(Greg Goode)が2009年のSANDで受けたインタビューが面白いので、翻訳紹介の許可をもらいました。インタビュアーはPaula Marvellyさんです。

ラメッシ・バルセカールの教えで欠けていると彼が考える点や、サットサン型ネオ・アドヴァイタでみられる罠についても触れられていて、かなり興味深いです。

An Interview with Greg Goode

グレッグ・グッドのインタビュー (SAND 2009にて)

Q. あなたは「ダイレクトパス」スタイルの手法を、ミーティングや教えのなかで提供していらっしゃいますが、正確にはそれはどういったものでしょう。そして他の種類の手法とはどういった点が違うのでしょうか?

A. ダイレクトパスは、目標に向かってだんだんと徐々に近づいていく必要があるという「プログレッシブパス(漸進的な道)」とは対照的です。ダイレクトパスで取り掛かる点は、最初から終着点です。誰もが初めから真理、愛、知識、気づき(名前は異なりますが同じものです)として存在しています。もし疑いや疑問があるのであれば、自分の経験を直接調べてみることで、解消することができます。そういう風に調べてみれば、どの瞬間においても、人は気づきとして存在しているということが分かります。

ダイレクトパスと他の手法とが異なる点のひとつとしては、教え方があります。究極的には師も教えも存在しないのですが、ダイレクトパスでは教えを利用することができます。ダイレクトパスには、世界、身体、マインドのリアリティを詳しく調べて、そういうリアリティが気づき以外のものであったことがないということを示すための、実証された方法があります。

Q. それは知的なプロセスなのでしょうか?

A. いえ、包括的なものです。経験のうちで他よりも重要だとされているものはなくて、状況から取り残されるものもありません。分析もするのですが、知覚、身体、感覚、直感、動きと休止、経験の他の側面を調べることもします。

というよりも、ダイレクトパスでは、経験の種類の区別そのものがあまりありません。知性、感情、身体と区別されていたものが、別のものではなく、純粋で、確実で、全体的なものだということが分かるようになります。

Q. では、このダイレクトパスをどのように伝えていらっしゃいますか?サットサンでしょうか?

A. サットサンはしていません。たいていは個人的に対話形式で行います。グループで行う場合は、セミナー形式が好きです。サットサン型はあまり好きではありません。

Q. サットサン型は好きではないということなんですが、サットサン型というのはどんなもののことを言うのでしょうか?それから、サットサン型のどういうところが問題だと思いますか?

A. サットサン型では、「持てる者」と「持たざる者」のはっきりとした区別がつくりだされてしまいます。すべてのサットサンがそうであるわけではありませんが、私が言う意味でのサットサンは、理解を発展させるための教科書や練習や手法を使わずに行われます。基本的には、部屋の前方に、真理の唯一の伝え手であると宣伝された人物が座っているというかたちです。彼らは自分の経験について話します。つまり、中心になっているのは教師の個性です。経験は普遍的なものなんだという理解を促すための他の道具が何もない状態で、参加者は、提供されているが何であっても、それにしがみつきます。参加者が教師の身体的、人格的、エネルギー的な性質に焦点をあてることにより、そこで起こることは、教師自体が教えになってし� ��うという事態です。話されていることの内容も、その教師に重点が置かれたものになります。こういう形式では、経験の普遍性というものはすべての人の生まれつきのものなんだという理解がもたらされることはありません。

サットサンでは、経験は、まるで身体的に流動的なもので個別化されていて、人の内部にあるものであるかのように扱われます。そのために、サットサン型では、参加者は自身の経験を、教師が経験したのはこういうことなんだろうと捉えた経験と比較することしかできず、また、そういう経験を欲しがるようになります。こういう比較によって、部屋の中には羨望と苦悩の雰囲気が醸しだされます。

この比較は、皮肉なパターンを引き起こします。うまくいっているかどうかを確認するには、自分がその教師のようであるかどうかを確認することになります。では、これを確認するための最高の方法は何だと思いますか?それは、自分自身が部屋の前方に座って、他の人たちが自分の言う事を聞いているという状況を作り出すという方法です。これは、自己永続的な共振器になってしまいます。この力学のせいで、サットサンに参加しはじめた頃よりも分離して疎外されて孤独に感じるようになったという人たちが、私のところに来ていました。

Q. 教えを知的に完全には理解していない場合に、質問の向きをかえて、「この質問をしているのは誰でしょうか?」と逆に聞き返すというような、ちょっとしたごまかしをしようとする教師たちがいるかもしれません。その答えは明らかに「私です」なのですが、答えを知っているのであれば、そもそも最初から質問はしていないでしょう。つまり、とても微妙な屈辱が発生するということになります。そして質問をした人に対して大勢が笑い、笑われた人には恥をかかされたという思いが残るでしょう。そもそも質問はとても真摯で誠実なものだったのにです。


どのasansは、うつ病に効果的ですか?

A. そうですね。「誰が尋ねているのでしょうか?」は、大抵の場合は最後の手段です。しばらくの間、90年代のおわり頃ですが、こういう表現は口先だけの反射的なもので、ほとんどマントラのようなものでした。人々はお互いにいつもこのことをメールでも外食のときでも言い合っていました。もちろんほとんどの場合は、この言葉は質問に答えるものではなくて、質問を回避するためのものです。これをいくら言っても、未来にまた同じ質問が生じることは避けられません。でも、質問の背後にある質問を教師が理解している場合には、教師は質問が生じているまさにその場所から、質問に答えることができます。そうすれば、質問に対する真の答えが可能になり、それは、質問者の中心にいつもあって、質問の背後にある欲求が止まる� �とにつながります。

Q. 自己を理解するためのプロセスの一部として、古くからの書物を勉強することは大切だと思われますか?

A. 古いものである必要はないと思いますが、全領域を扱うのに十分な深さと範囲の広さは必要だと思います。もちろん、古くからの書物は素晴らしくて実績もあって、何度も繰り返し成果をだしています。ある人たちにとっては、古くからのものだという事実そのものが、その書物の重々しさと権威の感覚を増すことになるでしょう。つまり、そうした人にとっては、書物で伝えられていることが真実であるという信頼の感覚がつくられることによって、そうした書物は注意を引くものになるでしょう。他の人たちにとっては、古い作品はただ単に響きません。「簡単な英語で表現できないことならば、そんなことには興味ないよ」ということです。悟りは多くの言語に対応しているはずだから、サンスクリット語やチベット語でしか話せな� ��ということはないでしょう!と。

Q. アドヴァイタとはなんでしょうか?

A. アドヴァイタは、サンスクリット語で「二つではない」ということを意味する形容詞です。アドヴァイタは、西洋では、意識を第一とする種類の非二元論につけるラベルになっています。それから、アドヴァイタというのは、ウパニシャッドとバガヴァッド・ギーターの非二元的な教えを示す「アドヴァイタ・ヴェーダーンタ」という伝統的な名称の一部でもあります。

Q. アドヴァイタは、どのように伝えられるべきだとお考えですか?教師を通してでしょうか?サンスクリットの書物を通してでしょうか?どうでしょう?

A. 情報の伝えられ方の種類が多ければ多いほど、それを受ける人が教えと共鳴する可能性が高まると思います。人によっては、人から人に伝える方法が、より完全な理解に導きます。

本やウェブサイトを自分で読むということは、たいていの場合は十分ではありません。アドヴァイタ・ヴェーダーンタでは、ほとんどの教えは、節ごとに書物を読んでいくという形をとっていて、それは口頭での注釈と、生徒と師との間で交わされるQ&Aとで構成されています。注釈は、メタレベルのたくさんの注釈を含んでいて、教えについて語ること自体が教えとなって、教えがどのように機能するかを明らかにします。これは、書物にある表面的な教えでは見えなかった部分を見せる、隠された教えのようなものです。そして、こうしたことで変化の多くが起こります。これによって、生徒の理解は深く広いものになり、教えが文字通りのものになったり表面的なものに留まったりするようなことが避けられます。

近頃は状況が変わりつつあるのですが、それでも、こういう口頭での注釈の大部分は、伝統的には書き留められることはありません。これはアドヴァイタ・ヴェーダーンタ以外の道でも見られるやり方で、これによって教えの伝統そのものが受け継がれていくという面があります。その場にいることによって、ということです。

その結果はどうなっているかというと、これまでのところは最も価値のあることのほとんどは公表されていません。それをインターネットで検索することもできなければ、それについて書店で読んで調べることもできません。本もウェブサイトも疑問に答えることはできませんし、師や愛しい友人との間で起こるような共鳴は、本との間では起こりません。ですから、印刷物や電子メディアが情報への唯一のアクセス手段だとしたら、手に入らないものが存在しますよ、ということになります。

Q. 西洋ではアドヴァイタはどのように受け取られているでしょうか。アドヴァイタにはいろいろな流れがあるようですが、どういったものがあって、どう違うのでしょうか?

A. 西洋では、アドヴァイタというのは、非二元性について語る人が誰であっても、そうした人たちを指す言葉として使われています。西洋で見られるいろいろな流れの中には、スワミ・チンマヤナンダとスワミ・ダヤナンダの伝統的な教え、20世紀の3人の巨人であるラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、シュリ・アートマナンダ(クリシュナ・メノン)から生じたそれほど伝統的ではない流れ、そしてラーマクリシュナとヴィヴェーカーナンダ、そしてスワミ・シヴァナンダに由来する、よりヨガ風味の教えがあります。

Q. ヴィシシタアドヴァイタもありますか?

A. そうですね、それは修正不二一元論ですね。これはより礼拝的な道で、シュリ・ラーマーヌジャが起源です。神と探求者は同じ神の本質から作られているものですが、目標は神と一体化することではないとされています。むしろ、一体化するのではなく、出来るだけ近寄ることが目標とされます。アドヴァイタの人が「私は蜂蜜だ」と言うのに対して、ヴィシシタアドヴァイタの人は「蜂蜜であるよりも、蜂蜜を味わおう」と言います。

実際、サットサン型は真のアドヴァイタよりも、ヴィシシタアドヴァイタのほうに似ています。献身的愛情や、教師の人格的側面を強調するからです。

Q. いわゆるネオ・アドヴァイタの動きについてはどうでしょうか?ネオ・アドヴァイタをどのように定義されますか?


体内から毒素を除去する方法

A. それにネオ・アドヴァイタという名前が付けられる前(ネオ・アドヴァイタの教師たちは自身をそのように呼ぶことはないですが)、私はその教えを非行為者性の教えという風に呼んでいました。というのは、そこにはたった一つの前提があるからです。それは、行為者あるいは行為者性は存在せず、すべては神によって遂行されているか、そうでなければすべては自動的で自然発生的だというものです。分離した自己は存在しません。自由というのものは、この事実を非個人的に理解することであり、その理解も、行為者や行為者性とは関係なく、誰に起こるわけでもないものだとされます。

これは実のところ、50年代から70年代を通して執筆していた心理学者のB. F. スキナーの原理的な決定論、行動主義の教えとそう違いません。最近の非行為者性の教えと同じように、スキナーは感情への執着や内なる「悪魔」の観念から人々を解放するために、こうした教えを使っていました。

でも、90年代の終わりや2001年、2002年頃にはネオ・アドヴァイタについてよく耳にしていましたが、最近はあまり聞きません。私が知る限りでは、こうした教えを追いかけていた人々は、今では他のことを追いかけています。ネオ・アドヴァイタの教師たちの多くが何をしたのかは知りませんが、生徒たちはどこかへ行ってしまいました。

Q. それはなぜだと思いますか?

A. 試してみても効果がなかったからでしょう!

Q. もしかしたら、ネオ・アドヴァイタの教えは、エゴとか「私」にちょっと一息つける場所を提供してくれるのかもしれません。というのは、仕事をしたくないとか、非二元の教えの逆説的な性質がどうも理解できないというようなときに、時間稼ぎができるからです。

A. ええ、でも、ある人たちにとっては、この教えはとても役立ちます。心理的に助けになります。ある非行為者性の教師のことを思い出します。彼は何度もニューヨークに来ていましたが、彼のもとに集まる人たちは年々減少していました。彼のところに通っていた人たちに会いましたが、彼らに共通していた人生の問題がありました。それは、罪悪感です。ですから、もし罪悪感が人生の一番の問題であって、そこから解放されたいのであれば、非行為者性はその解決には本当に役立ちます。行為者がいないのであれば、罪悪感の土台はなくなります。これにはスキナーも同意すると思います。

空っぽのボートのたとえを聞いたことがありますか?あなたは湖に浮かぶボートに寝転がっています。穏やかな波を楽しんでいて、本当にゆったりしています。突然、何かがあなたのボートに衝突します。あなたは完全に怒りながら起き上がって、あなたのボートに今ぶつかったもう一つのボートを見ます。あなたはまさにオールでそのボートをぶっ叩くところです!で、あなたは、よく見るとそのボートには誰も乗っていないことに気がつきます。あなたの怒りは次第に小さくなり、溶けていき、消失します。もしかしたらボートを叩きたいかもしれませんが、人が乗っていると思っていた時ほどは、ボートに対しては怒り狂ってはいないでしょう。というわけで、あなたが自分自身のボートに誰も乗っていないことが分かると、罪悪� ��の土台の多くが消えます。でも、それは、非二元の認識や、あなたの本質の理解とはまるで異なります。非行為者性を理解することは、世界、身体、マインドが、光や明晰さである単一で分裂していない気づきなのだと認識することとは、全く違います。

Q. ラメッシ・バルセカールはSin and Guilt: Monstrosity of the Mindという本を書きました(邦題『人生を心から楽しむ 罪悪感からの解放』高木悠鼓訳、マホロバアート刊)。ラメッシはまさに非行為者性の先生でした。私は、これはとても惑わせる議論だと思います。というのは、これは妙な形で知的な意味では道理にかなっているのですが、究極的には役にたたないように見えるからです。どうしてかと言うと、その人自身の苦境は消えないからです。

A. なるほど。行為の創造者はいません。でも、現象性はあって、身体と行動は存在し続け、楽しむ人はいて、主体と客体もあり、他のたくさんの二元性が現れています。というか、行為者はいないということを証明するまさに同じ議論が、実際のところは、すべての物体について同じ結論を導きます。ですが、行為者はいないという教えは手前で止まってしまって、そこまで至りません。その中心となる洞察は、潜在的には強力で、役に立ち、助けになって真実でもあるのですが、それは決して一般化されず、二元的な構造のほとんどは吟味されないまま放っておかれます。

実際、ラメッシが愛用するたとえの一つに、まさにその印象があります。電気のたとえですが、それは行為の自動性を説明するはずのものです。台所を想像し、そこでは一人は食器洗浄機で、もう一人は電子レンジで、もう一人は冷蔵庫です。こうした機械すべては、それらが動作するようにプログラムされた通りのことだけをして、それらを流れる電気(意識)によって生命を吹き込まれています。

それは全ての人に流れているのと同じ電気ですが、人は何もしておらず、すべてを行っているのは電気です。これによって、独立した行為者性という観念が取り除かれます。でもこれだけでは他の沢山のことを説明していません。機械自体のような物体の多様性は説明されていません。もっと重要なことは、このたとえでは、意識と、意識が動かしている物事との区別にふれていません。電子レンジというものがそれ自体意識であることも説明していません。


何がこの病気の治療です。

私自身について言えば、この教えに本当に助けられました。それは、私は本当は何なのだろうということを、長年に渡って探求していたからです。私は本当に熱心に、見つけられるところはどんな隅っこでも端っこでも調べました。粗雑な領域も、微細な領域もです。身体、マインド、価値観、記憶、傾向、そして私を私自身にしていると思われるものは何であっても調べてみました。こういう候補のどれも私ではありえないことが分かりました。行為者はいないという教えに接するより何年も前に、私は個別の存在として同一化していると考えられる一つの領域がある、ということを考え始めました。それは、決定能力としての自分です。選択者です。人生における軌道を構想するものです。これが自分なのだ!と考えました。私はま� ��にこの問題を自分で2年間研究し続け、この決定能力を間近で見ようとし、自分のこの手のひらでそれをつかもうとしました。

そのときに私はラメッシのConsciousness Speaksを読んで、この分離した存在が、他のものと同じように、一時的で非恒久的で透けている物体にすぎないということを理解しました。私は分離した選択者だとか、分離した存在だとかいう観念はすぐに溶け去りました。個人であるという感覚はあっという間に消えました。そして、自分の母、恋人、友人、同僚が個人としての本質をもっているという感覚も消えました。すべて消えたんです!私は自分では気がついていませんでしたが、非行為者性の教えに接する機が熟していました。私はすでに私の本質に関する候補を絞り込んでいましたし、他のすべてはすでに除外していました。唯一残っていたのは行為者性の問題でした。これによってカードをひっくり返されたのです。

Q. では、誰が行為者なんでしょうか?

A. 本当のところは、行為者は意識そのものでしかありえません。ですが、行為者は、反復的な思考、感情、感覚、身体の収縮、喪失や分離や自尊心や罪悪感や罪の感覚、あるいは感情の塊という形で現れることができます。ダイレクトパスでは、人の真の自己のこうしたすべての候補が調べられて、こうしたものが、意識に現れ観照される対象物でしかないことが明らかになります。ですから、行為者は意識そのものでしかありえません。

ダイレクトパスでは行為者が調べられますが、それはとても重要なものとしてではありません。ダイレクトパスでは、行為者性を、引きぬいたら家全体が倒壊するような一種の要石であるとはみなしません。行為者性は、調べるべき多くの対象のなかのほんの一つです。アドヴァイタの重要な著作物であるヨガヴァシシタのはじめで、解放への手段として自己努力が奨励されているのは興味深いことです。この伝統では、行為者性の感覚を、ある段階においては役立つものだとしているということです。私はこれに賛成します。探求者が、行為者の周辺の領域を否定せずに、すぐに行為者を否定するのは、必ずしも良いことではありません。なぜかと言うと、多くの場合は、自分が何かをしているように感じられることが、その人の役に� ��つことだからです。ですから、自分は行為者ではないという信念を身につけるよりも、そういう役にたつことをしたほうがいいです。行為者ではないという信念があると、行為をしないように努力するでしょうし、それはより分かりづらいものではありますが、また別の行為にすぎないからです。行為をしないという行為をすることは、少なからぬ苦しみをもたらしかねない、虚無的な態度です。

Q. あるいは、それは自分の行動にある程度の責任をとるのを拒絶するということでしょうか?

A. はい。そしてよく起こることは、責任を誰か他の人に転嫁するということです。もしかしたら自分の先生に転嫁するかもしれません。自分を悟らせるのも、解放させるもの、他のことも先生の責任だ、と。または、とても意地の悪いやり方で、ごまかしをするかもしれませんね。自分にとっていいことかどうかで、誰が行為者であるかを決めるといったように。たとえば、もしあなたが私を非難するようなことがあれば、私は行為者ではありません。でも、私があなたに大して腹を立てているようなことであれば、あなたを行為者とします。それは親のようなものです。「子どものいいところは全部私のおかげで、子どもの悪いところは全部あなたのせいよ!」というあれです。

Q. あなたが行為者について話しているとき、それは「私」のことですか?

A. いえ、違います。ダイレクトパスの教えでは、行為者性は中心的な問題ではありません。アートマナンダはある時点で行為者性について確かに触れています。もし人が、自分は行為者ではないという感覚を深く継続的に持つことができれば、それで十分で、それによって解放されるだろうと。でも、他の沢山のことも、同じように人を解放に導くともアートマナンダは言っています。彼は、愛、世界、「私」の感覚、知覚、目覚めていること等を調べなさいと言っています。このいずれもが、十分に深く検討されるならば、あなたを解放するだろうと彼は言うでしょう。

ダイレクトパスで私が好きなことは、それがあらゆる可能性を調査するという点です。経験のひとつの側面を否定しようとするのではなくて、経験のすべての側面を調べます。

Q. ダイレクトパスの教えは特定の先生の教えに基づいているのですか?

A. はい、シュリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノンです。彼は1959年に亡くなりました。

Q. ダイレクトパスの目指すものは何なのでしょうか?ダイレクトパスの特徴について教えてください。


A. 目的は、苦しみを和らげることです。アートマナンダが言っていることのひとつは、気づきとしての自分の本質を理解するために、頭とハートを和解させ一体化させるということです。より専門的に言えば、二元性を経験することがなくなることだと言うこともできます。もっとも二元的な経験でさえも、それが正しく理解されれば、実際には全く二元的ではありません。それはただ気づきです。ですから、ダイレクトパスの教えの多くは、本当は何が起こっているのかということを、自分の直接的な経験によって理解する方法だということです。

Q. では、あなたはどこにいますか?日常的に本当に実際にどのように世界を知覚しているんでしょうか?

A. 私は、二元性を全く経験していません。でも実のところは、それを言うことでさえ言い過ぎです。なんらかの言語的な交流が起こらない限りは、何も現れませんし、何も起こりません。ですから会話が始まるまでは、言うことは本当に何もありません。会話が始まれば、自然に無意識に会話は続きます。ですから私は二元性を見ていません。メキシコ料理が好きなことについてとか、新しい靴のこととか、そういうことを話すことはできますが、それは非指示的なものです。つまり、私は話を、外部の現実を示す鏡としては見ていないということです。それは、音楽が美を明らかにするようなものです。

Q. ということは、ある意味で探求は終わったという意味ですか?

A. もちろん、ずいぶん前に終わっています。そうは言っても、したいことも読みたいことも学びたいことも沢山あります。

Q. そして、マインドは休んでいるということですか?

A. マインドは、気づき以外のなにものでもないものとして理解されています。マインドを、気づき以外のなにものでもないものとして見ることは簡単なことです。というのは、それを探してみても、見つけることはできないからです。マインドを見つけようとして私が最も近寄れたのは、本当に眠い状態と、起きてコーヒーを飲むとかジョギングをするときの状態の違いを見たときで、そのときはマインドの速さと明瞭さに違いがあることが分かりました。でも、そこに何か存在を見つけることは不可能です。伝統的な教えでは、しばしば、マインドが呼吸に従うということについて触れていますね。呼吸が本当に速いときはマインドも速くなって、反対にマインドが忙しく速いときは呼吸も速くなります。思考以外に、マインドを見つける� ��とはできません。思考でさえも、見つけることはできません。私たちはマインドのことを、物理主義的なたとえを用いて、瓶か包みかバケツのことを考えるときのように考えます。思考は何かの入れ物に入っているものに違いない、と私たちは考えます。でも、思考が概念の構築物以外のなにものでもないことを理解するのは、非常に簡単なことです。

Q. では、エゴとは何で、それはマインドとはどう違うのでしょうか?

A. エゴはダイレクトパスでは使われていない用語ですが、エゴは何か特定のものと同一化すること、または、分離した自己の感覚としてみることができます。それは、自分というものが何であれ、それが世界や他の似ている者たちから分離しているという感覚です。この感覚は、思考、感情、感覚、願望、希望、恐れ、欲求、それから身体内の収縮や震えといったものすべての集合体であるかもしれません。そしてそれは、それ自体独立した存在だと私たちが感じる何かとして具体化します。この時点で、この何かは、養われ、維持され、なだめられ、守られなければいけなくなります。スピリチュアルの世界においても、愉快なことが起こればそれが何であれ、エゴは自分の手柄にしようとします!

ダイレクトパスでは、自己の感覚とマインドの感覚の両方を調べ、そのいずれもが見かけどおりのものではないということを見ます。それどころか、そういったものは、観照している気づきに生じる薄い何か、心象、見かけです。こういうものは現れては消えますが、この気づきとしての私たちの本質が不在であることは、ずっと絶対にありません。

Q. では、あなたのところに来る人たちには、どんなことを提供されているのでしょうか?

A. 敬意、傾聴、明晰さ、ユーモア、現実性、そして、どの瞬間にあっても私たち自身の経験は最も傑出した賢者たちが示した真理を裏付けているのだ、ということを理解するための方法です。

Q. では、あなたが人に与えられないものは何でしょう?

A. 余計な添えもの、権力、カリスマ性、といったようなものです。

こうしたものを提供できないので、こういう要素を求めている人たちが、どこか別のところに行ってくれます。たとえば、ダライ・ラマに会いに行ったサットサンの人たちを知っていますが、こんなことをよく聞かされました。「先週ダライ・ラマに会ったんだけど、何もなかったよ。特別な感じは全然受けなかった。」 彼らは知る由もないのでしょう。ダライ・ラマの道においては、彼らは修行し、また修行し、瞑想し、また瞑想しますが、その目的の一つが、まさにそのようになる、特別ではなくなるためなんだということを。

(インタビューは以上)

最初の方にある「究極的には師も教えも存在しないのですが、ダイレクトパスでは教えを利用することができます。」という部分のニュアンスがよく分からなかったので、意味を聞いてみました。以下のようなことだそうです。

「アドヴァイタでは、意識しか存在せず、従って個人も物も存在せず、師も生徒も教えも道も悟りも存在しないとされています。でも、身体精神機構のようなものは存在しているように見える、とも言います。ダイレクトパスでは何も例外とはしません。気づき以外には一切何もありません。何も存在しないのであれば、何について話しても、何を扱っても自由だということになりますから、それが教えであれ何であれ、どのように使っても良いはずですよね、という意味で言いました」


と饒舌な感じで詳しく教えてもらいました(三分の一くらいに端折りました)。

興味があったのでこんな質問もしてみました。

「真実を発見する上で、師の存在は助けになるのでしょうか?または必要でしょうか?言葉や方法の提供という意味ではなく、物理的な実在のことです」

グレッグからの答えは今度は簡潔で、

「私の観察したところによれば、問いを抱いている人にとっては、答えはYesです」

というものでした。この答えの簡潔さが多くのことを語っているように感じました。



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