グレッグ・グッド(Greg Goode)が2009年のSANDで受けたインタビューが面白いので、翻訳紹介の許可をもらいました。インタビュアーはPaula Marvellyさんです。
ラメッシ・バルセカールの教えで欠けていると彼が考える点や、サットサン型ネオ・アドヴァイタでみられる罠についても触れられていて、かなり興味深いです。
An Interview with Greg Goode
グレッグ・グッドのインタビュー (SAND 2009にて)
Q. あなたは「ダイレクトパス」スタイルの手法を、ミーティングや教えのなかで提供していらっしゃいますが、正確にはそれはどういったものでしょう。そして他の種類の手法とはどういった点が違うのでしょうか?
A. ダイレクトパスは、目標に向かってだんだんと徐々に近づいていく必要があるという「プログレッシブパス(漸進的な道)」とは対照的です。ダイレクトパスで取り掛かる点は、最初から終着点です。誰もが初めから真理、愛、知識、気づき(名前は異なりますが同じものです)として存在しています。もし疑いや疑問があるのであれば、自分の経験を直接調べてみることで、解消することができます。そういう風に調べてみれば、どの瞬間においても、人は気づきとして存在しているということが分かります。
ダイレクトパスと他の手法とが異なる点のひとつとしては、教え方があります。究極的には師も教えも存在しないのですが、ダイレクトパスでは教えを利用することができます。ダイレクトパスには、世界、身体、マインドのリアリティを詳しく調べて、そういうリアリティが気づき以外のものであったことがないということを示すための、実証された方法があります。
Q. それは知的なプロセスなのでしょうか?
A. いえ、包括的なものです。経験のうちで他よりも重要だとされているものはなくて、状況から取り残されるものもありません。分析もするのですが、知覚、身体、感覚、直感、動きと休止、経験の他の側面を調べることもします。
というよりも、ダイレクトパスでは、経験の種類の区別そのものがあまりありません。知性、感情、身体と区別されていたものが、別のものではなく、純粋で、確実で、全体的なものだということが分かるようになります。
Q. では、このダイレクトパスをどのように伝えていらっしゃいますか?サットサンでしょうか?
A. サットサンはしていません。たいていは個人的に対話形式で行います。グループで行う場合は、セミナー形式が好きです。サットサン型はあまり好きではありません。
Q. サットサン型は好きではないということなんですが、サットサン型というのはどんなもののことを言うのでしょうか?それから、サットサン型のどういうところが問題だと思いますか?
A. サットサン型では、「持てる者」と「持たざる者」のはっきりとした区別がつくりだされてしまいます。すべてのサットサンがそうであるわけではありませんが、私が言う意味でのサットサンは、理解を発展させるための教科書や練習や手法を使わずに行われます。基本的には、部屋の前方に、真理の唯一の伝え手であると宣伝された人物が座っているというかたちです。彼らは自分の経験について話します。つまり、中心になっているのは教師の個性です。経験は普遍的なものなんだという理解を促すための他の道具が何もない状態で、参加者は、提供されているが何であっても、それにしがみつきます。参加者が教師の身体的、人格的、エネルギー的な性質に焦点をあてることにより、そこで起こることは、教師自体が教えになってし� ��うという事態です。話されていることの内容も、その教師に重点が置かれたものになります。こういう形式では、経験の普遍性というものはすべての人の生まれつきのものなんだという理解がもたらされることはありません。
サットサンでは、経験は、まるで身体的に流動的なもので個別化されていて、人の内部にあるものであるかのように扱われます。そのために、サットサン型では、参加者は自身の経験を、教師が経験したのはこういうことなんだろうと捉えた経験と比較することしかできず、また、そういう経験を欲しがるようになります。こういう比較によって、部屋の中には羨望と苦悩の雰囲気が醸しだされます。
この比較は、皮肉なパターンを引き起こします。うまくいっているかどうかを確認するには、自分がその教師のようであるかどうかを確認することになります。では、これを確認するための最高の方法は何だと思いますか?それは、自分自身が部屋の前方に座って、他の人たちが自分の言う事を聞いているという状況を作り出すという方法です。これは、自己永続的な共振器になってしまいます。この力学のせいで、サットサンに参加しはじめた頃よりも分離して疎外されて孤独に感じるようになったという人たちが、私のところに来ていました。
Q. 教えを知的に完全には理解していない場合に、質問の向きをかえて、「この質問をしているのは誰でしょうか?」と逆に聞き返すというような、ちょっとしたごまかしをしようとする教師たちがいるかもしれません。その答えは明らかに「私です」なのですが、答えを知っているのであれば、そもそも最初から質問はしていないでしょう。つまり、とても微妙な屈辱が発生するということになります。そして質問をした人に対して大勢が笑い、笑われた人には恥をかかされたという思いが残るでしょう。そもそも質問はとても真摯で誠実なものだったのにです。
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